「人生が終わった。」
そんな経験をしたことがある人がいるだろうか?
僕は、生きながらにして死んでるみたいに、いまを生きてる。
どうしようもなく。
自分だけが特別で、悲劇の主人公みたいなつもりで言ってるんじゃない。むしろ、そう思えるのならこの先を生きていくのにプラスになりそうだから、その方が良いのかもしれないと思うくらいだ。
人生の途中で。
歩いていた道が消滅した。
過去にすがることも、未来に希望を抱くこともできなくなって、この場所にしゃがみこんでる。
結論を急げば。
自ら命を絶つことは僕にはできないだろう。
そんな勇気は持ち合わせてないみたいだ。
だけど。
充電切れ寸前のケータイを充電し忘れて眠ってしまい、翌朝電源オフになったケータイみたいに終われるのなら、ずっと覚めない夢を見ていたい、と。
素敵な夢から目覚めた朝、そんなことを思ったりもする。
つまり僕はここに存在してるだけで。
自ら「生きている」とは言えない存在だ。
「生きている」のか「死んでいる」のかを尋ねられたとしたら、「生きている」と答えるだけだ。
たとえば住んでいた家が火事になり全焼したみたいに、僕はすべてを失った。
これまで関わってきたすべての人と連絡を絶ち、現在は誰とも関わることもない。
先日、ラーメン屋で帰り際に閉店時間を店員に尋ねた。
ただ当たり前に店員は閉店時間を答えただけだったのだけど。
店を出てからじわっと涙があふれてきた。
「なんで泣いてるんだろう?」と考えて惨めになってさらに泣いた。
久しぶりの会話だった。そして、久しぶりに自分の声を聞いた。
結局のところ、そんなことで泣いてる自分が惨めで泣いたのだ。
先日、病院に行った。
医師に「うつ病です」と言われ診察室で泣いた。
なぜだろう?
涙の意味を考えた。
覚悟はしてたけど面と向かって言われてショックだったのかもしれない。
隠せるものなら隠したかったけど、隠せるような涙じゃなかった。
それでまた、泣いてる自分が惨めになって泣いたのだろう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
〝文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ〟
と語りながら、別の考えを続けて語る。
〝うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない〟
その時には、
〝僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう〟
この文章を書きながら僕はまた泣いた。もちろん、自分を惨めに思ったからじゃない。
なぜ泣いたのか?
再び、涙の意味を考えた。
村上春樹の言葉をもう一度借りる。
〝正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく〟
それでも正直に、正確に、僕はそれを答えることができる。
ずっと先に。
より美しい言葉で世界を語り始める自分を想像して泣いたのだ。
幸い、「僕には〝書く〟しかない」と言ってるくらいだ。
おまけに、「小説家になりたい」とねごとも言ってる。
絶望の淵に立ってるような気になってるけれど、そこで目を閉じてもまったくの闇ではないのだ。微かに光を感じることができる。
「人生が終わった。」
そんな経験をしたことがある人がいるだろうか?
たぶん、少なからずいると思う。
そんな人たちに今の僕は何も言えないし、言ったところでそれが響くとも思えない。
だから僕は、身をもって示そうと思う。
この先、自分がどうなっていくのかを語りながら、生きていく。
僕のねごとを、聞いてくれる人がいるのなら、それは喜ばしい限りだ。
生きることが趣味みたいに。